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■江戸幕府の成立 年表 1600 関ケ原の戦い 1603 家康、征夷大将軍となる。 1604 家康、江戸幕府を開く。 1615 大阪夏の陣で、豊臣家が滅亡した。 ↓ ポイント:関ケ原の戦いで、家康が勝利した後に、家康中心の時代になった。 →①征夷大将軍の意味が変わること(家系図を使った説明が妥当)。 ②各身分の人々をどのように支配していったのか。 豊臣政権、農民、武士、商人、宗教勢力、朝廷など。 ①関ケ原の戦い 1598年に秀吉が死んだあと、徳川家康と石田三成(ともに部下)が戦いを起こした戦いのこと。 →戦争の結果、徳川家康が勝利した。 ②征夷大将軍 従来の意味は 「蝦夷(東北にいる、朝廷に従わない連中)を征伐するリーダー」 「武士をまとめるリーダー的存在(鎌倉以降)」 征夷大将軍になるための条件 1)源氏の血を引き継いでいること 2)天皇が将軍を任命すること →天皇に認められなければ、将軍になれないということ。 そのため、朝廷と良好になる必要があった。 ちなみに、武士が将軍の言うことを聞いているのは、天皇が任命した(将軍だと認めた)からである。 幕末に起きた公武合体が起きた理由は、朝廷との関係を改善するためである。 では、天皇と将軍、どちらが政治を行うべきなのか? →これには、2通りの解釈が存在する。 1)将軍を任命した天皇が主君(水戸藩、『大日本史』) 天皇―将軍―武士 2)天皇が偉いのは認めるが、政治を行うことを将軍に任せた(統治委任論) 天皇→将軍―武士 (「→」は「政治を任せる」 →幕府は2)で解釈し、支配の正当性を強めた。 いっそう強めた思想が朱子学! 徳川家の将軍の特徴とは何か 徳川家康は、息子の秀忠に将軍職を継承した。この歴史的意義は、将軍とは、徳川家にしかなれないことを意味している(徳川家ではないものを将軍に任命すると、徳川家中心の時代が終わる、ということをアピール)。反対の言い方をすれば、徳川家ではないものが将軍にはなれないことを表している。その危険性が起こる理由は、基本的に、徳川家に子供がいないことである。 →ここまで説明しておくと、明治以降、天皇中心の時代が訪れることも理解できる。理由説明にもつながる。皇帝=天皇とみなして明治時代は天皇中心の国家体制が確立した(近代国家という概念は皇帝(王様、統治者)がいないと、成立しないから)。 ③大阪夏の陣 大阪夏の陣によって、豊臣家が滅亡した。 これ以降、江戸時代は平和の時代が誕生したということである。(パクス・トクガワーナ) その後戦わなくなった武士はどうなったのか? →学問を勉強したり、肉体の強さを活かして土木工事をしたりした。 収入は百姓から取った年貢で生活していました。 江戸幕府の支配体制 幕府が、①武士 ②農民(えた・ひにん含む) ③町人 ④仏教勢力をどのように支配していったのかを確認しよう。 ①武士の支配 →(A)石高制と(B)法支配!(基本的には豊臣家の政策を引き継ぐ) (A)石高制 支配者、権力者の立場に立てば理解しやすい! 流れ:全国統一(全国の土地が一旦幕府のものに) →それを各地域の有力な武士=大名に分配 & その大名がもつ土地を「藩」とする ※藩の例:薩摩藩、長州藩、肥前藩、土佐藩、水戸藩など ※大名は「藩主」「領主」とも言う →では、誰にどのぐらい分配しようかなあ… →そのときの基準となったのが「石高制」 石高制とは、ポイント制! →1万石以上の石高があれば大名になれる ※石高=面積×収穫高。 ※「大名」という言い方の起源は平安時代の「大名田堵(たと)」にさかのぼる →大名田堵=名(10世紀~太閤検地までの土地の単位)を多く持った有力農民。 →つまり「大名」とはもともと「土地を多く持った」という意味 石高はみんな平等というわけではなかった →徳川家と徳川家に信頼されている藩は石高の数が大きく、そうでない藩は石高の量が少なかった →信頼度順に、親藩、譜代、外様大名に分かれた 種類意味 主な配置先 親藩徳川家一門の大名 紀伊・水戸・尾張 譜代関ケ原以前から徳川家の家臣近い~普通 外様〃 以後 〃 遠い →定期テストでは、①親藩の具体例、②主な配置先の特徴が記述問題で頻出 石高制は、都合のいい人を優遇し、都合の悪い人を排除するものである。 1)言うことを聞かない大名に関しては、土地を没収してクビにした。(家康~家光まで) (※) (没収すれば、面積=0になるので、石高も0になる) →しかし、土地を没収された後の武士は「浪人」となり、浪人が団結して反乱を起こすこともあった →そのため、幕府は、土地の没収ではなく、儒教(=偉い人には逆らうな!)を浸透させて支配していこうとした →これが綱吉の文治政治につながる (※)例:広島藩の藩主・福島正則は、幕府の許可なく無断で広島城を立て直した。 →武家諸法度に違反していたので、処罰され、土地を没収された 2)収穫高の少ない地域には、交易で賄わせる 例:松前藩(面積は広いが、もともと米がそんなに取れなかった) 3)能力のない大名の石高は減らし、能力のある大名に分配する(足高の制by徳川吉宗) 大名とは、①領地を支配し、②年貢をもらうことができる →もらった年貢は、配下の武士たちに「俸禄」(給料)として分配 →大名も、幕府の役人に「俸禄」を支給される(米や領地) →もらった俸禄(米など)は、札差(金融業)に換金してもらう →もらえるお金は、米の供給量によって変化する →飢饉などに米があまりとれないと、米が少ないので価値・価格は高くなる。(米が少ないので結局儲からない) 一方、豊作で米が多く取れるときは、米の価値・価格は低くなる。(当然、儲からない) →武士は基本的に貧乏である →だからこそ、その後さまざまな改革が行われる (B)法支配 →武家諸法度を制定した(将軍ごとに更新される。3代目のときに参勤交代が追加される) →目的は、 ①武士のあり方を意識してもらう ②武士の勢力削減(武士が儲けすぎると、軍事力を強めて、幕府に反発する可能性があり、それを防ぐ) ※鎖国の目的も②と一緒。 →第一目的はキリスト教の禁止だが、大名の勢力削減という目的もあった。 (貿易を幕府が主導で行うことで、大名が貿易によって儲けることを阻止することが可能) ②農民支配 基本的には、年貢を払わせることで支配した 前提:農民の家族構成は、基本的に主&妻&子ども →なぜ子どもを産むのか →主が死んだ後、子ども(長男)に後を継がせるため ※後継ぎがいないと、その土地は農民の共有地(幕領)となり、土地をめぐった争いが起こってしまう ※長男が早死にするリスクを防ぐため、子どもは2人以上産むんでいた ※女子が産まれた場合→武士の家庭に嫁がせることが多い 石高の公式上の問題 1石高の公式は、面積×収穫高である。 つまり、税額は、面積or収穫高が少ないならば、その分税額も少なくなるということを意味している。 2主が死ぬと、何人かの子供に遺産相続させる(土地の細分化)。その結果、主が持っていた面積よりも子供の面積の方が少なくなるのである(ケーキを何人かに分けると、ケーキの分量が少なくなる感じ)。 →時代を経れば、経るほど、農民一人当たりの面積が少なくなる。 ⇨幕府の収入も農民の収穫高も少なくなる(収穫高の多寡は面積の大きさに左右する)。 ここでの問題点は、幕府の税収入が減ってしまうことと、農民の生活苦に陥ることである。 さらに、収穫高に依存しているため、悪天候に見舞われると、収穫高が激減するケースもあるため、リスクは大きい。 ③問題点の解決策 1商品作物を作成する(農民)(17C) 米の栽培が少なくなる場合、米以外の作物を都市に売ることで、お金を稼いでいた。そのような作物を商品作物という。主な具体例として、干鰯、金肥、たばこ、みかんなどが具体例である。しかし、幕府としては農民には、米作りに専念してもらいたい。そのため、商品作物の栽培を法律で禁止していた(※)。 2面積を増やす(土地の細分化をなくす)(17C後半~18C) そもそも面積が少なくないから、年貢量が少なくなるわけである。ならば、何らかの手段で面積を増やせば問題はない。増やした方法は以下のとおりである。 稲作が出来るような土地(新田)の開発 新田開発にも、お金がかかるわけです。そこで、幕府はそのお金をお金持ちである町人や武士に出資させたのである。ちなみに、一部の地域では、農民自らが新田開発をすることもあった。 土地の細分化をなくすこと そもそも土地の細分化をしてしまうことが問題である。そこで幕府は、ある土地の面積以下になったら、土地の細分化を禁止する法律を制定した(※)。 3少ない土地でも効率よくたくさん栽培できる工夫をした。 農具の改良や商品作物を用いた肥料を使った(『コンプリート』参照)。 4土地を地主に売る(農民側のアクション)+都市の出稼ぎにでる(18世紀)。 1や2を行っても、土地が少ないため、農民の生活が困窮するケースがあった。農民は生活費を稼ぐために、土地をお金持ちの農民に売った(※)。 土地を売った農民の人は職を失う。その結果、豪農の下で働くようになった。その働いている様子は、一方的にコキ使って安い給料で働かしていたのである(明治時代の寄生地主制と同じである)。その豪農の名称は、明治時代になると、寄生地主という名前である。 それで農民は、都市に出稼ぎに行っていたのである。 その結果、年貢を払わない人が続出した(武士の収入が減った)。土地を売ったら、耕す人が減ってしまうためである。それに対して幕府は、農村に帰れ!と命じた。 明治時代になると、地租改正によって、より多くの小作人を生み出して、寄生地主が大金持ちとなって、間接的に軍国主義を助長させたのは、地租改正を参照してください、。 ■改革期 徳川綱吉 1 勉強熱心で学問奨励 2 貿易を通じて国内の金・銀が少なくなったこと、元禄文化発展による経済活動の活発化により貨幣の需要が高まったことなどにより、 貨幣を増やそうとしたが、金の量に限りがあるので、貨幣の質を落として金を増やした →下げた分の金は幕府の収入とし、保管する。そうすると幕府の権力=国力(国の信用度)を高めることができる。 →民衆の手持ちの貨幣が増える分、物価は高騰。 新井白石 →学者。理想主義。 →貨幣価値をもとに戻した。(金の比率を高くした。残った部分には何を入れたか?→食塩、硝酸カリウムなど) 田沼のイメージ 年貢だけに頼りたくない →株仲間 蝦夷地調査(ビジネスチャンス!海産物とれる!) ↓ ・海産物を輸出するため、 長崎貿易奨励→(国内に不足していた)金銀をもらって補う! ・金銀が少なくなったので、銅を輸出 ※もちろん、年貢に頼ることもする。印旛沼の開拓など ※印旛沼の開拓理由は、水野の場合と違う。 水野は、アヘン戦争による列強(イギリスなど)の脅威に対抗するために、印旛沼からすぐに太平洋に出れるようにという意味で開拓した。 松平のイメージ ①米 ②思想統制 理由:国内で幕府への反発があり、改めて支配のために思想を統制する必要が生じたから (当時も中国とは貿易をしていたので、そのなかで陽明学など他の思想が流入してきた。そのため、儒学への反発が高まりそうになったのを防ごうとしたから) 外国からの脅威(ロシア船がやってくるなど)→民衆の混乱→秩序のしきり直しが必要だった 田沼で政治が乱れたから ■米商人 → 集めた年貢をそのまま売っている 年貢は大阪の蔵屋敷などに集まる ■貨幣経済の広まり 貨幣経済自体は奈良時代からやっていた それが江戸時代のこの時期になって一気に発展 (朝廷がつくった和同開珎が貴族たちに広まったが、だんだんみんな朝廷に従わなくなり、使わなくなった。そして室町ぐらいからまた徐々に貨幣が発展、江戸時代でもっと発展した。)
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江戸時代検定 ○× 四択 連想 並べ替え 四文字 スロット タイピング ビジュアル 線結び 一問多答 順番当て
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父は火消し同心 1858年にコレラで死去 『木曾街道六十九次』 代表作『東海道五十三次』 →安藤広重 江戸時代の元号 将軍は家定と家茂 日米修好通商条約 吉田松陰らが処刑 →安政 保科正行の父 正室は崇源院 武家諸法度を制定 江戸時代の第2代将軍 →徳川秀忠 MOA美術館所蔵の国宝 江戸元禄文化の代表作 中央に流れる川 画家・尾形光琳の作品 →『紅白梅図屏風』 「人魂で行く気散じや夏野原」 極度の引っ越し魔 画狂人、卍など多くの号を持つ 代表作『富岳三十六景』 →葛飾北斎 版元の蔦屋重三郎とのコンビ 江戸時代の浮世絵画家 役者の大首絵を描く その正体は不明 →東洲斎写楽 江戸時代の儒学者 著書『折玄』『遠思楼詩鈔』 現在の大分県日田市出身 私塾・咸宜園を開く →広瀬淡窓 緒方洪庵の適塾で学ぶ 福井藩士 号は「景岳」 安政の大獄で斬首 →橋本左内 江戸時代の俳人 本名は「弥太郎」 「我と来て遊べや親のない雀」 句集『おらが春』 →小林一茶 幕末の人斬り 薩摩藩士 前名は中村半次郎 西南戦争で自刃 →桐野利秋 徳川綱吉政権下の大老 「天和の治」をおこなう 下総古河藩の初代藩主 稲葉正休により江戸時代で刺殺 →堀田正俊 人返しの法 株仲間の解散 上知令 水野忠邦 →天保の改革 小千谷裁判 戊辰戦争で負傷し死去 司馬遼太郎の小説『峠』 長岡藩の藩政改革に尽力 →河井継之助 五街道のひとつ 宇都宮 杉並木 現在の栃木県が終点 →日光街道 江戸時代の豪商 津本陽の『黄金の海へ』 みかんを江戸へ輸送 通称は「紀文」 →紀伊国屋文左衛門 伊能忠敬の銅像 東京都江東区 横綱力士碑 深川祭で有名 →富岡八幡宮 境内には乙女稲荷、駒込稲荷 例祭やつつじ祭りで有名 東京都文京区の神社 夏目漱石や森鴎外ゆかりの神社 →根津神社 備後福山藩の第7代藩主 ペリーが来航した時の老中 徳川家慶、家定の時代に活躍 安政の改革を行う →阿部正弘 江戸時代の旗本 『三河物語』 家康・秀忠・家光に仕える 「天下のご意見番」 →大久保彦左衛門 尊王攘夷論を説く 著書『千島異聞』『新論』 江戸時代後期の水戸藩士 弘道館の初代教授頭取 →会沢正志斎 若狭小浜藩の初代藩主 吉良上野介の親戚 川越藩の第2代藩主 徳川家光、家綱政権下の大老 →酒井忠勝 甲府藩の初代藩主 儒学者の荻生徂徠を抜擢 最後は大老格に上り詰める 将軍・徳川綱吉の側用人 →柳沢吉保 考案者は佐藤新助 大仏銭 文銭 銭形平次の投げ銭 →寛永通宝 幕末の四賢侯 自称「鯨海酔侯」 徳川慶喜に大政奉還を建白 土佐藩主 →山内容堂 江戸幕府のオランダ通詞 長崎の蘭方医 「成秀館」で教える 『解体新書』の序文を執筆 →吉雄耕牛 江戸時代の画家 『西行法師行状絵詞』 『蓮池水禽図』 『風神雷神図屏風』 →俵屋宗達 『弘道館記述義』『常陸帯』 幕末の水戸藩の学者 徳川斉昭の側用人 安政の大地震で死去 →藤田東湖 著書『和蘭陀本草図経』 伊藤仁斎に儒学を学ぶ 加賀金沢藩の医者 『庶物類纂』を編纂 →稲生若水 11歳で将軍に あだ名は「左様せい様」 保科正之を重用 江戸幕府の第4代将軍 →徳川家綱 元々の名前は「家祥」 父は徳川家慶 日米和親条約を結ぶ 江戸幕府の第13代将軍 →徳川家定 政治には無関心 田沼意次を老中に起用 父は徳川家重 江戸幕府の第10代将軍 →徳川家治 大岡忠光を側用人に起用 田沼意次を抜擢 あだ名は「小便公方」 江戸幕府の第9代将軍 →徳川家重 蛮社の獄 天保の改革 ペリー初来航時の将軍 江戸時代の第12代将軍 →徳川家慶 江戸時代前期の儒学者 孔子の『論語』を重視 著書『童子問』『論語古義』 京都に私塾・古義堂を開く →伊藤仁斎 父は公家の冷泉為純 江戸時代前期の儒学者 徳川家康の招きで江戸へ 林羅山の師匠 →藤原惺窩 江戸時代の蘭学者 古河藩の家老 大塩平八郎の乱を平定 渡辺崋山が描いた肖像画 →鷹見泉石 現在の栃木県宇都宮市出身 著書『山陵志』『職官志』 寛政の三奇人のひとり 前方後円墳の名付け親 →蒲生君平 徳川家宣、家継の時代に活躍 幕府の将軍侍講 正徳の治を行う 著書『西洋紀聞』 →新井白石 倒幕に繋がる勤皇思想を説く 江戸時代中期の儒学者 明和事件で捕まり処刑 著書『柳子新論』 →山県大弐 本名は「吉村芳三郎」 江戸時代の歌舞伎作家 白浪物が得意 代表作『三人吉三』 →河竹黙阿弥 『筑前国続風土記』 福岡藩の藩士 博物誌『大和本草』 教育書『養生訓』 →貝原益軒 山号を無量山 東京都文京区のお寺 浄土宗 徳川将軍家の菩提寺 →伝通院 浄土宗 山号は三縁山 東京都港区のお寺 徳川将軍家の菩提寺 →増上寺 東京都台東区のお寺 山号は東叡山 徳川将軍家の菩提寺 天台宗の関東総本山 →寛永寺 山号は萬松山 臨済宗 賀茂真淵の墓がある 沢庵宗彭が開山 →東海寺 曹洞宗 山号は大渓山 江戸時代に井伊家の菩提寺 招き猫で有名 →豪徳寺 徳川家康に仕える 明智光秀と同一人物説も 天台宗の僧侶 寛永寺を創建 →南光坊天海 大和五條の代官所を焼き打ち 土佐の吉村寅太郎が活躍 江戸幕府に対する幕末最初の反乱 公家の中山忠光が大将 →天誅組の変 弟の北渓は徳川吉宗の侍医 江戸時代中期の儒学者 柳沢吉保に抜擢される 著書『政談』 →荻生徂徠 江戸時代の学者 懐徳堂で学ぶ 大坂の両替商升屋別家の番頭 著書『夢の代』 →山片蟠桃 安政の大獄で処分 幕末期の儒学者 京都の町人出身 岡田以蔵に暗殺される →池内大学 佐渡奉行として活躍 徳川綱吉、家宣の時代に活躍 経済回復のため貨幣改鋳を断行 江戸幕府の勘定奉行 →荻原重秀 徳川幕府の歌学方に就任 俳書『山の井』『俳諧埋木』 松尾芭蕉の俳句の師匠 注釈書『源氏物語湖月抄』 →北村季吟 江戸時代の画家 京都の呉服商の息子 『燕子花図屏風』 『紅白梅図屏風』 →尾形光琳 幕末の人斬り 肥後藩士 高田源兵衛と改名 佐久間象山を暗殺 →河上彦斎 幕末の人斬り 薩摩藩士 示現流の達人 姉小路公知暗殺の嫌疑で自刃 →田中新兵衛 寛政の三奇人のひとり 現在の宮城県仙台市出身 号は六無斎 著書『海国兵談』 →林子平 『治要管見』『交隣提醒』 木下順庵の弟子 江戸時代中期の儒学者 対馬藩朝鮮方佐役として活躍 →雨森芳洲 『不動智神妙録』 臨済宗の僧侶 紫衣事件で流罪に 東海寺を開く →沢庵宗彭 筑波山知足院の住職 新義真言宗の僧侶 徳川綱吉の治世に活躍 生類憐みの令 →隆光 一面に金箔が張ってある 2曲1双の屏風 尾形光琳による模写も有名 作者は俵屋宗達 →『風神雷神図屏風』 幕末の四賢侯 安政の大獄で隠居処分 日清修好条規を締結 宇和島藩主 →伊達宗城 幕末の御用絵師 江戸狩野の祖 名古屋城・二条城のふすま絵 狩野永徳の孫 →狩野探幽 福井藩で藩政改革を行う 1868年に京都で暗殺 熊本に私塾・四時軒を開く 著書『国是三論』 →横井小楠
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幕末にペリーが率いた黒船は実は赤色に塗られていた →× 幕末に坂本龍馬が殺害された事件の舞台となったのは近江屋である →○ └幕末に坂本龍馬が殺害された事件の舞台となったのは池田屋である →× 江戸時代、町人が江戸市中を馬に乗って移動することは禁止されていた →○ 江戸時代、江戸の面積は現在の東京都よりも広かった →× 幕末の1863年に奇兵隊を組織した長州藩の武士は高杉晋作である →○ └幕末の1863年に奇兵隊を組織した長州藩の武士は坂本龍馬である →× 江戸時代、一般外国人の登山は禁止されていた →○ 幕末の志士・勝海舟は戊辰戦争で戦死した →× 江戸時代に赤穂藩の特産品とされた調味料は塩である →○ └江戸時代に赤穂藩の特産品とされた調味料は砂糖である →× 江戸時代にも幕府が設けた公衆便所があった →× 江戸時代、女性だけで歌舞伎を見に行くのは禁止されていた →○ 江戸の三大飢饉とは「享保」「寛政」「天保」の飢饉である →× 松平定信が行った「寛政異学の禁」は朱子学以外のすべての学問を禁じたものであった →× 徳川将軍家の菩提寺として有名な上野の寛永寺は天台宗のお寺である →○ └徳川将軍家の菩提寺として有名な上野の寛永寺は真言宗のお寺である →× 江戸時代に「八百八橋」といわれた大坂には、当時実際に808個以上の橋があった →× 「八百八町」と呼ばれた江戸には、実際には最も多い時で808以上の町があった →○ 1837年に日本を訪れた商船モリソン号はアメリカ国籍の船である →○ 江戸時代、奉公人が休みとなる「藪入り」は1年に4回あった →× 江戸の「三大飢饉」のうち最も被害が大きかったのは天明の大飢饉である →○ 白味噌と赤味噌のうち江戸時代に江戸で好まれたのは赤味噌である →○ └白味噌と赤味噌のうち江戸時代に江戸で好まれたのは白味噌である →× ひな祭りに雛人形を飾るようになったのは江戸時代からである →○ 江戸時代後期に起きた桜田門外の変と坂下門外の変は共に水戸藩の浪士が起こした事件である →○ 東京の地名、御茶ノ水は江戸時代に御茶屋が多くあったことから命名された →× 東京の地名「高島平」に名を残す幕末の砲術家は高島秋帆である →○ 江戸時代に緒方洪庵が適塾を開いた都市は大坂である →○ └江戸時代に緒方洪庵が適塾を開いた都市は江戸である →× 江戸時代の与力と同心、上司に当たるのは与力である →○ 江戸時代、江戸の北部の事件は北町奉行が、南部の事件は南町奉行所が取り扱っていた →× 江戸時代に江戸っ子が好んだ初鰹とは、お正月に食べる鰹のことである →× 東京の赤坂御苑がある場所にかつてあった屋敷は紀伊徳川家のものである →○ └東京の赤坂御苑がある場所にかつてあった屋敷は水戸徳川家のものである →× 松平定信に登用された「寛政の三博士」とは林子平・蒲生君平・高山彦九郎のことである →× 1828年のシーボルト事件で国外追放処分となったシーボルトは二度と日本に来ることはなかった →× 1686年に起きた貞享騒動とは松本藩の百姓一揆である →○ 司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』の主人公である新撰組の人物は土方歳三である →○ 室町幕府の将軍の名前と江戸時代に将軍の名前で共通する漢字は全くない →○ 江戸時代に町火消四十八組を組織した南町奉行は大岡忠相である →○ └江戸時代に町火消四十八組を組織した南町奉行は遠山景元である →× 1860年の桜田門外の変で井伊直弼は江戸城桜田門から出た直後に襲われた →×
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江戸時代に完成した日光東照宮に祀られている「東照大権現」とは誰のこと? →徳川家康 江戸時代中期の1682年に寺の小姓と会いたいために放火未遂事件を起こして処刑された女性は誰? →八百屋お七 江戸時代の伝説の商人紀伊國屋文左衛門が紀州から江戸にミカンを運ぶのに使ったものは? →船 江戸時代、町奉行配下の与力や同心たちのことを、彼らが住んでいた江戸時代の地名から「どこの旦那」と呼んだ? →八丁堀 江戸時代、町民たちに仕事の斡旋をしていた職業のことを何といった? →口入れ屋 江戸時代、江戸では普通ご飯を炊くのは一日のうちいつ頃だった? →朝 江戸時代の遊郭における遊女の階級で、一般的に最も位が高かったのは? →太夫 江戸時代にあった再生紙のことを、紙すき業者がいた田原町、山谷があった地名から何といった? →浅草紙 現在、花見の名所となっている隅田川の堤防に、桜の木を植えさせた将軍は? →徳川吉宗 江戸時代に初鰹が人気あったことを詠んだ句「まな板に小判一枚初鰹」の作者は誰? →宝井其角 江戸幕府の14代将軍徳川家茂は、御三家・御三卿のうちの何家の出身? →紀伊徳川家 江戸時代に三浦屋の遊女が代々襲名した、吉原で最も有名だった遊女の名前は? →高尾太夫 別名の「シビ」が「死日」につながることから、江戸時代に武士が口にしなかったという魚は何? →マグロ 江戸時代、奥州街道と日光街道の分岐点だった宿場はどこ? →宇都宮 江戸時代に「十三里」という呼び名で親しまれた食べ物といえば? →焼き芋 1699年に江戸で創業され人気となった「にんべん」はどんな商品を扱うお店? →鰹節 幕末に起きた生麦事件で薩摩藩士・奈良原喜左衛門に斬りつけられて亡くなったイギリス人の名前は? →リチャードソン 幕末に活躍した儒学者・佐久間象山の妻は誰の妹? →勝海舟 「読書丸」という名前の薬を売っていた作家は誰? →山東京伝 └「奇応丸」や「神女湯」という名前の薬を売っていた作家は誰? →曲亭馬琴 幕末の1863年に武蔵国で起きた「井土ヶ谷事件」で攘夷派の浪士達に殺害されたフランス士官の名前は? →カミュ 江戸時代に北町奉行所があった場所は、現在どんな場所が建っている? →東京駅 江戸時代の庶民の芝居見物のことを芝居の時に食べるものの頭文字から何といった? →かべす 江戸時代初期の1613年に幕府と朝廷が対立した「紫衣事件」が起きた時の天皇は誰? →後水尾天皇 狂歌を詠む時は「酒上不埒」という名前を用いていた江戸時代の戯作者は誰? →恋川春町 江戸時代に上方で「おくどさん」と呼ばれたものといえば何? →竈 東京日本橋の「日本橋」の橋の北側にある銘板の題字を書いた徳川将軍は誰? →徳川慶喜 江戸時代の私塾、鳴滝塾を開いたのはシーボルトですが芝蘭堂を開いたのは? →大槻玄沢 江戸時代後期の1788年に起きた事件「尊号一件」で父に太上天皇の尊号を送ろうとして幕府ともめた天皇は誰? →光格天皇 大変な猫好きだったことから「猫々道人」という号を持っていた江戸時代の作家は誰? →仮名垣魯文 └弟子の一派を「県門」といったのは? →賀茂真淵 寛政の改革で有名な江戸時代の老中・松平定信の祖父である江戸時代将軍は誰? →徳川吉宗 「浮世の月見過しにけり末二年」という辞世の句を残して1693年に亡くなった江戸時代の人物は? →井原西鶴 徳川家康が江戸城に入城した日であることから、江戸時代に武家の祝日になっていたのは旧暦の何月何日? →八月一日 江戸時代に「京都三名水」と呼ばれた名水の中で唯一現在も残っているのは? →染井 村上庄右衛門の騙し討ちにあった菅野六朗左衛門を助太刀した「高田馬場の決闘」で有名な赤穂四十七士の一人は誰? →堀部安兵衛 江戸時代に町火消しが着用した半纏を何という? →刺し子半纏 「歌舞伎十八番」を制定したのは何世市川團十郎? →七世 1622年、長崎でキリシタン55人が処刑となった宗教弾圧事件を何という? →元和大殉教 1728年に日本に初めて輸入され当時の江戸幕府将軍・徳川吉宗に献上された象は、現在のどこの国から来たものだった? →ベトナム 京都の自然の美しさを読んだ江戸時代の句「布団着て寝たる姿や東山」の作者は誰? →服部嵐雪
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問題 解答 補足 江戸時代、与力・同心の下で犯罪捜査を行いました おかっぴき 江戸城の別名です ちよだじょう 千代田城 江戸幕府が町や村に作らせた五戸一組で連帯責任を負う組織 ごにんぐみ 五人組 多くの傑作を残した江戸時代の歌舞伎役者 なみきごへい 並木五瓶 京都島原の遊郭内に住んでいた江戸時代中期の俳人です たんたいぎ 炭太祇 元禄時代、幕府の御用絵師として活躍した大和絵の名手 とさみつおき 土佐光起 徳川秀忠・家光・家綱の3代に仕えた江戸時代の武将 いいなおたか 井伊直孝
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問題 解答 補足 1600年に大分県に漂着し徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士はウィリアム・○○○○? アダムス 1611年にサンフランシスコ2世号で来日して徳川家康や伊達政宗に謁見したスペインの探検家はセバスティアン・○○○○○? ビスカイノ 1714年に大奥の女中だった絵島と密会した罪により三宅島へ島流しになった歌舞伎役者の名前は? 生島新五郎 1723年に老中となり、徳川吉宗の享保の改革を推進し、財政再建に務めた下総佐倉藩初代藩主は? 松平乗邑 1808年、イギリス船が長崎港に侵入した「フェートン号事件」の責任をとって切腹した長崎奉行は? 松平康英 1823年にオランダ商館の医師として来日し長崎に診療所兼私塾として鳴滝塾を開いたドイツ人は? シーボルト 1828年のシーボルト事件でシーボルトが日本地図などを積んで出航しようとした船はコルネリウス・○○○○○号? ハウトマン 1837年に大坂で乱を起こした元与力の大塩平八郎が自宅で開いていた私塾の名前は? 洗心洞 1837年のモリソン号事件での幕府の対応に不満を持った渡辺崋山が、幕府の政策を批判して書いた文書は? 慎機論 1858年に孝明天皇が水戸藩に勅書を送り、安政の大獄の引き金となった事件は「○○の密勅」? 戊午 1858年に日米修好通商条約を締結した後、1862年まで初代駐日公使を務めたアメリカ人はタウンゼント・○○○? ハリス 1860年、大老・井伊直弼が水戸の浪士たちに暗殺された事件のことを何という? 桜田門外の変 1876年に塾生・前原一誠が起こした萩の乱の責任を取り自害した、山口県萩市にあった松下村塾の創立者は? 玉木文之進 1876年に萩の乱に影響を受けた旧会津藩士の永岡久茂らが千葉県庁を襲撃しようとした士族反乱未遂事件は○○○事件? 思案橋 「胡麻の油と農民は絞れば絞るほど出るものなり」という言葉で有名な、徳川吉宗の時代の勘定奉行といえば? 神尾春央 『野ざらし紀行』『笈の小文』『奥の細道』などの紀行文で有名な江戸時代の俳人は? 松尾芭蕉 『人をばかにした人だ』など、たくさんの人の体で一人の人間の顔を描いた作品で有名な江戸時代末期の浮世絵師は? 歌川国芳 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の元となったとされる句「化け物の正体見たり枯れ尾花」を詠んだ江戸時代の国学者は? 横井也有 新井白石が訊問して『西洋紀聞』『采覧異言』を著したイエズス会宣教師は? シドッチ 家宣、家継、吉宗の三代に仕えた木門十哲の一人でもある江戸時代の儒学者で、著書に『駿台雑話』や『六諭衍義大意』があるのは? 室鳩巣 むろきゅうそう 伊能忠敬よりも早い時期に日本初の実測地図を作成した「讃岐のエジソン」と呼ばれた江戸時代の香川県の発明家は? 久米通賢 宇都宮城に釣天井を仕掛けて、将軍・徳川秀忠の暗殺を謀ったとして1622年に流罪となった江戸幕府年寄の宇都宮藩主は? 本多正純 江戸時代、大坂に私塾「適塾」を開き、福沢諭吉 大村益次郎ら多くの優秀な人物を育てた蘭学者は? 緒方洪庵 江戸時代中期に幕府の命により木曽三川の治水事業をおこなった薩摩藩士が、自殺や病気を余儀なくされた事件は○○○○事件? 宝暦治水 江戸時代に加賀藩が越中と信濃の国境警備や盗伐見廻りのために組織したのは「○○廻り」? 奥山 江戸時代に葛飾北斎の『富嶽三十六景』を初めて刊行した版元の名前は○○屋与八? 西村 江戸時代にこの地区が作られたのは、何という政策のため? 鎖国 出島 江戸時代に下町の職人などが主に用いた、巻き舌で荒っぽい口調を○○○○○口調という? べらんめえ 江戸時代に実際に起きた赤穂事件を題材としている有名な歌舞伎の演目は『仮名手本○○○』? 忠臣蔵 江戸時代に儒学者・貝原益軒が長生きするために必要な生活の方法を、実体験に基づいて書き記した著書は何? 養生訓 江戸時代に主人に抱えられずに独立して自前で営業していた芸娼妓のことを何という? 出居衆 江戸時代に老中・松平定信が行なった、昌平坂学問所において朱子学以外の儒学を教えるのを禁じた政策を何という? 寛政異学の禁 江戸時代の1762年に即位した第117代天皇で、現在のところ日本における最後の女帝なのは○○○天皇? 後桜町 江戸時代の京都の治安維持のために置かれた役職のことを「京都○○○」という? 所司代 江戸時代の儒学者・伊藤仁斎が京都の堀川に開いていた別名を「堀川学校」といった私塾の名前は? 古義堂 江戸時代の天文学者・麻田剛立が現在の大阪市に開いた天文暦学の私塾で、山片蟠桃、間重富らを輩出したのは○○館? 先事 江戸時代の俳人・小林一茶の有名な句は「目出度さもちう位也 ○○○○」? おらが春 江戸時代の武士がたとえ貧しくても気位が高かったことを言った言葉は「武士は食わねど○○○」? 高楊枝 江戸時代の蘭学医・伊東玄朴が江戸に開き、蘭学を教えた私塾の名前は? 象先堂 江戸時代の蘭学者・杉田玄白が開いた、医学と蘭学を教えた私塾の名前は? 天真楼 江戸城大手門の下馬札付近に住んでいたので、「下馬将軍」と呼ばれた、徳川家綱の時代に大老を務めた人物は? 酒井忠清 江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母で、大奥法度を定め、大奥を整備したことで知られる人物は? 春日局 江戸幕府最後の将軍である第15代将軍は徳川○○? 慶喜 江戸幕府第12代将軍・徳川家慶の時代の老中で天保の改革をおこなったことで有名なのは? 水野忠邦 大塩平八郎の乱から3ヵ月後の1837年6月に越後国柏崎で武装蜂起し、代官所を襲撃した江戸時代の国学者は? 生田万 緒方洪庵、箕作院甫らが学んだ現在の岡山県津山市に江戸時代後期の蘭学者・宇田川玄真が開いた私塾の名前は○○堂? 風雲 弟の尚信、安信を江戸に呼び寄せて、狩野派の中心を京都から江戸に移し、江戸狩野派の祖となった画家は狩野○○? 探幽 オランダの画家ゴッホの作品『花魁』の元となった浮世絵『雲龍打掛の花魁』を描いた江戸時代後期の浮世絵師は? 渓斎英泉 狩野探幽門下の四天王に数えられたが後に破門になった江戸時代の画家で、『四季耕作図屏風』など朴訥な作風で知られるのは? 久隅守景 関東八州を取り締まったことから「八州廻り」の別名がある1805年に勘定奉行の支配下に設置された江戸時代の役職は? 関東取締出役 カンボジアにある仏教遺跡アンコール・ワットの回廊の柱に落書きを残した江戸時代の平戸藩士は○○右近太夫? 森本 現在の大阪大学文学部の前身となった、江戸時代の大坂の商人が創設した学問所で、山片蟠桃らを輩出したのは○○堂? 懐徳 作品に『夕立』『団扇売り』などがある江戸時代の浮世絵師で「錦絵」技法の大成者として知られるのは? 鈴木春信 三角関数の級数展開を記した著書『方円算経』でも有名な、関孝和を祖とする「関流和算」を確立させた江戸時代の数学者は? 松永良弼 参勤交代の緩和、京都守護職の新設など、1862年に江戸幕府で行われた改革は「○○の改革」? 文久 芝居では「赤城の山も今宵限り」のセリフで有名になった本名を「長岡忠次郎」という江戸後期の侠客は? 国定忠次 小説『赤ひげ診療譚』の舞台にもなっている無料で庶民の治療にあたった江戸幕府の医療施設は? 小石川養生所 数学者・関孝和の弟子として彼の理論の解説書を多数著した円周率に関する研究で有名な江戸時代の和算家は? 建部賢弘 その中で初めて「東京」という言葉が使われた、江戸への遷都を唱えている、江戸時代後期の思想家・佐藤信淵の著書は? 混同秘策 代表作に『耶馬溪図巻』や松平定信に進呈された『日本外史』などがある江戸時代の陽明学者は? 頼山陽 代表作にボストン美術館所蔵の『雲龍図』や京都・興聖寺所蔵の『寒山拾得図』がある、江戸時代中期に活躍した型破りな画家は? 曾我蕭白 朝鮮、琉球、蝦夷、小笠原諸島など日本の近隣地域について書かれている、江戸時代の儒学者・林子平の地理書は? 三国通覧図説 著書『海防問答』の中でロシアの南下を警告した、間宮林蔵、近藤重蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれた江戸時代の幕臣は? 平山行蔵 著書に漢文編年体で書かれた歴史書『本朝通鑑』がある家康から家綱まで4代の将軍に仕えた江戸時代の儒学者は? 林羅山 著書に幕末の勤王の志士たちが愛読した『日本外史』がある大分県の景勝地、耶馬渓を命名した江戸後期の儒学者は? 頼山陽 著書にロシアの南下政策に対する国防を唱えた『海国兵談』がある寛政の三奇人の一人に数えられた江戸時代後期の学者は? 林子平 天保の大飢饉の翌年の1837年に民衆を救済するため、江戸幕府に対する反乱を起こした大坂町奉行所の元与力は? 大塩平八郎 天文、地理、神代など10章からなる、江戸時代の学者・商人山片蟠桃が書いた書物は? 夢の代 東京国立博物館に収蔵されている「寛政の三筆」と呼ばれた江戸時代の書家・本阿弥光悦による国宝は「○○蒔絵硯箱」? 舟橋 徳川家光の時代に行われた日光東照宮の陽明門や三猿で知られる神厩舎などが作られたことを「○○の大造替」という? 寛永 徳川家康の十一男である水戸藩初代藩主で、水戸黄門こと水戸光圀の父親なのは徳川○○? 頼房 徳川吉宗に命じられ、地球から太陽や月までの距離を測定したことで知られる江戸時代中期の数学者は? 中根元圭 新田次郎の小説『鳥人伝』に描かれている、自作の翼を用いて日本で初めて空を飛んだとされる江戸時代の人物は○○幸吉? 浮田 日本三大仇討ちにも数えられる1634年の「伊賀越の仇討ち」で渡辺数馬が荒木又右衛門の力を借りて討ち取った、弟の仇は? 河合又五郎 日本で初めて日章旗を掲げて就航した、幕末に島津斉彬の命で薩摩藩が建造し、江戸幕府に献上した洋式軍艦は○○丸? 昇平 日本の製薬会社「トクホン」の社名の由来となった江戸時代初期の医学者は○○徳本? 永田 幕府の側用人・柳沢吉保に仕えていたことでもある著書『政談』で知られる江戸時代の儒学者は? 荻生徂徠 おぎゅうそらい 幕府や諸藩に富国策を唱えた江戸時代の三大農学者の一人で著書『混同秘策』の中で初めて東京という言葉を用いたのは? 佐藤信淵 幕末の1859年に来日し初代駐日イギリス総領事を務めたイギリスの外交官はラザフォード・○○○○○○? オールコック 幕末の1861年に薩摩藩士の伊牟田尚平らに殺害された駐日アメリカ総領事館の通訳はヘンリー・○○○○○○? ヒュースケン 幕末の第一次長州征伐の際に高杉晋作と対立し、幕府に謝罪しようと主張した長州藩の保守派のことを○○党といった? 俗論 藤田貞資、安島直円ら多くの数学者を育てた、循環小数の研究や『宝暦甲戊暦』の作成で有名な江戸時代の数学者は? 山路主住 フランスの医師ドドエンスの著書を元に日本初の西洋博物学書『阿蘭陀本草和解』を著した江戸時代の蘭学者は? 野呂元丈 平安時代末期の武将・源為朝が琉球王国を建国するという内容の、曲亭馬琴が書いた江戸時代の読本は? 椿説弓張月 ちんせつゆみはりづき 別名を「近江聖人」という江戸時代初期の儒学者で「日本陽明学の祖」とされているのは? 中江藤樹 明の徐光啓の著書『農政全書』を参考に『農業全書』を著し現在の福岡市で農民を指導した江戸時代の三大農学者の一人は? 宮崎安貞 紫式部の『源氏物語』を下敷きにして書かれた、足利光氏を主人公とする、江戸時代の戯作者・柳亭種彦の作品は? 偐紫田舎源氏 役者似顔絵の開拓者である江戸時代の浮世絵師で、葛飾北斎の師であり、彼の最初の画名の由来となったのは? 勝川春章 遊郭唐琴屋の息子・丹次郎を主人公とした、江戸時代の戯作者・為永春水の人情本は? 春色梅児誉美 有名な記念切手のデザインにもなった代表作『見返り美人図』で知られる江戸時代の浮世絵師は? 菱川師宣 ロシアの南下を警告し蝦夷地開拓の重要性を説いた江戸時代の仙台藩医・工藤平助の著書は『赤蝦夷○○○』? 風説考
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問題 表示 解答 補足 1600年にオランダ船・リーフデ号が漂着しました 臼杵湾 うすきわん 1606年に陸奥国の戦国武将 安蘇国重が築いた城です 人首城 ひとかべじょう 1609年に豊臣方への備えとして徳川家康が兵庫県に築城した城 篠山城 ささやまじょう 1629年に即位した、称徳天皇以来の女性天皇は○○天皇? 明正 めいしょう 1653年に日光山輪王寺に造営された徳川家光の廟所です 大猷院 たいゆういん 1837年に乱を起こした越後国の国学者 生田万 いくたよろず 1865年に江戸幕府の最後の大老となった姫路藩主 酒井忠積 さかいただしげ 2010年に礎石の遺構が発見された小堀遠州が設けた「空中の茶室」 閑雲軒 かんうんけん 「赤城の山も今宵限り」の名文句で有名な江戸時代の侠客 国定忠治 くにさだちゅうじ 『赤蝦夷風説考』の著者・工藤平助の娘である江戸時代の随筆家 只野真葛 ただのまくず 『江戸新道』『都曲』などの作品がある江戸時代の俳人 池西言水 いけにしごんすい 「寛政の三博士」の一人です 古賀精里 こがせいり 「寛政の三博士」の一人です 尾藤二洲 びとうじしゅう 「元禄の四俳女」と呼ばれた江戸時代の女流俳人の一人 度会園女 わたらいそのめ 「元禄の四俳女」と呼ばれた江戸時代の女流俳人の一人 秋色女 しゅうしきじょ 『酒井銀鵝公俳句集』などの句集も残した江戸時代中期の姫路藩主 酒井忠以 さかいただざね 「定信」の字を分解して題名をつけた松平定信の自叙伝 宇下人言 うげのひとこと 「蕉門十哲」に数えられる江戸時代の俳人です 榎本其角 えのもときかく 「蕉門十哲」に数えられる江戸時代の俳人です 各務支考 かがみしこう 「蕉門十哲」の一人に数えられる江戸時代の俳人です 越智越人 おちえつじん 「不夜庵」「水語」などの別号でも活躍した江戸時代の俳人です 炭太祇 たんたいぎ 『見返り美人』で有名な江戸時代の浮世絵師です 菱川師宣 ひしかわもろのぶ 「雪の朝 ニの字ニの字の 下駄の跡」と詠んだ江戸時代の女流歌人 田捨女 でんすてじょでんすてめ 「妖怪」とあだ名された天保の改革の推進者 鳥居耀蔵 とりいようぞう 愛宕山を馬で駆け上ったエピソードが有名です 曲垣平九郎 まがきへいくろう 兄に画家の光琳を持つ江戸時代の陶工 画家です 尾形乾山 おがたけんざん アメリカ公使館通訳ヒュースケンを暗殺した薩摩藩の藩士です 伊牟田尚平 いむたしょうへい 安政の大獄によって処刑された水戸藩の家老 安島帯刀 あじまたてわき 安政の大獄における逮捕者第1号となった儒学者 梅田雲浜 うめだうんぴん 家綱から吉宗まで5代の将軍に仕えた江戸時代の儒学者 林鳳岡 はやしほうこう 伊東氏が藩主を務めた宮崎県日南市にあった藩 飫肥藩 おびはん 上田秋成の師匠である、近世読本作家の祖とされる江戸時代の作家 都賀庭鐘 つがていしょう 上野寛永寺を拠点に江戸の警備にあたりました 彰義隊 しょうぎたい 江戸、天明の狂歌三大家とは唐衣橘洲、大田南畝と誰? 朱楽菅江 あけらかんこう 江戸時代、旗本・御家人の代理で蔵米の取り引きをしました 札差 ふださし 江戸時代から作られている東京の名産品です 佃煮 つくだに 江戸時代後期に長州藩の藩主 毛利敬親の侍医を務めた医者 青木周弼 あおきしゅうすけ 江戸時代初期に加納藩主安藤信友が興した茶道の流派 御家流 おいえりゅう 江戸時代初期に対馬と朝鮮が結んだ通商条約 己酉約条 きゆうやくじょう 江戸時代前期に南村梅軒と祖とする南学を大成した土佐の儒学者 谷時中 たにじちゅう 江戸時代前期の儒学者伊藤仁斎の著書です 童子問 どうじもん 江戸時代中期から明治時代にかけて使われた女性用の被り物 御高祖頭巾 おこそずきん 江戸時代中期に伊予吉田藩の藩医を務めた医学者です 平住専安 ひらずみせんあん 江戸時代中期に活躍した、現在の兵庫県出身の俳人「上島○○」? 鬼貫 おにつら 江戸時代に罪人を入れ運んだ籠 唐丸籠 とうまるかご 江戸時代に、大槻玄沢が江戸に開いた蘭学塾 芝蘭堂 しらんどう 江戸時代に、人足が川を渡る人を乗せて対岸へ渡った台のこと 輦台 れんだい 江戸時代に岡山藩にあった庶民のための学校です 閑谷学校 しずたにがっこう 江戸時代に書かれた日本最古の釣りの解説書 河羨録 かせんろく 何羨録 江戸時代に籠を担いで町を売り歩いた商人のこと 棒手振り ぼてふり 江戸時代に魚市場や水産業者をこう呼びました 五十集 いさば 江戸時代に薩摩藩で行われた子弟の教育法は○○教育? 郷中 ごじゅう 江戸時代に多数の参拝者でにぎわった向島の神社です 三囲稲荷 みめぐりいなり 江戸時代に使われ始めた屋根の瓦の種類です 桟瓦 さんがわら 江戸時代に造られた細長く屋根のない舟 猪牙舟 ちょきぶね 江戸時代に博物書『庶物類纂』を編纂した加賀金沢藩の医者 稲生若水 いのうじゃくすい 江戸時代に発明された消防ポンプの一種です 龍吐水 りゅうどすい 江戸時代に広瀬淡窓が豊後国日田に開いた私塾 咸宜園 かんぎえん 江戸時代に広まった、鰯を干して乾燥させたものを固めて作る肥料 干鰯 ほしか 江戸時代に武士が領地を治めたことをこう言います 知行 ちぎょう 江戸時代によく見かけました 丁髷 ちょんまげ 江戸時代に離婚するときに書かれた離縁状のことです 三行半 みくだりはん 江戸時代の「三大和算家」とは関孝和、久留島喜内と誰? 建部賢弘 たけべかたひろ 江戸時代の医師・華岡青洲が乳癌手術に用いた麻酔薬 通仙散 つうせんさん 江戸時代の街道の一里塚に植えられました 榎 えのき 江戸時代の画家・尾形光琳の代表作は『○○○図屏風』? 燕子花 かきつばた 江戸時代の画家・尾形光琳の代表作は『○○○○図屏風』? 風神雷神 ふうじんらいじん 江戸時代の画家・尾形光琳の代表作は『○○○図屏風』? 紅白梅 こうはくばい 江戸時代の画家・司馬江漢が残した銅版画です 三囲景図 みめぐりけいずみめぐりのけいず 江戸時代の思想家 石田梅岩の著書 都鄙問答 とひもんどう 江戸時代の儒学者室鳩巣の著書です 駿台雑話 すんだいざつわ 江戸時代の政治家・新井白石が政権の変遷を論じた歴史書 読史余論 とくしよろん 江戸時代の奉行所で法廷にあたる場所 白洲 しらす 江戸時代の武士が持っていた特権のひとつ 切捨御免 きりすてごめん 江戸時代末期に公武合体政策を推進した幕府の老中です 久世広周 くぜひろちか 江戸時代を舞台にした小説やドラマでおなじみです 渡世人 とせいにん 江戸城開城の際に新政府軍の勅使を務めた人物です 橋本実梁 はしもとさねやな 江戸中期に幕府の命で木曽三川の治水工事を指揮した薩摩藩の家老 平田靱負 ひらたゆきえ 江戸幕府が全国の諸大名に命令してお城などを作らせた土木工事 天下普請 てんかぶしん 江戸幕府最後の大老である播磨姫路藩の第8代藩主 酒井忠績 さかいただしげ 江戸幕府の直轄地に置かれた奉行 遠国奉行 おんごくぶぎょう 江戸幕府最後の老中首座 板倉勝静 いたくらかつきよ 江戸幕府の将軍に直属した旗本や御家人の総称 直参 じきさん 江戸幕府の第9代将軍 徳川家重の幼名です 長福丸 ながとみまる 江戸幕府の直轄領のこと 天領 てんりょう 大坂城や駿府城に置かれた江戸幕府の役職です 城代 じょうだい 大坂の陣にも従軍している広島市の庭園・縮景園の作者 上田宗箇 うえだそうこ 大阪冬の陣の激戦地の一つ 博労淵 ばくろうぶち 大阪冬の陣では豊臣軍を打ち破るも、その後夜襲を受けました 蜂須賀至鎮 はちすかよししげ 火事とともに「江戸の華」と呼ばれました 喧嘩 けんか 歌舞伎俳優の初代・市川団十郎が狂言本を書くときに使った筆名 三升屋兵庫 みますやひょうご 株のチャート解析法・酒田五法を考案した天才相場師です 本間宗久 ほんまそうきゅう 喜多川歌麿の美人画にも描かれた寛政三美人の一人 富本豊雛 とみもととよひな 岐阜県大垣市に記念館がある江戸時代後期の詩人です 梁川星巌 やながわせいがん 現在の均一ショップにあたる江戸時代の価格が一律のお店 四文屋 しもんや 相模小田原藩の初代藩主を務めた江戸初期の老中です 大久保忠隣 おおくぼただちか 渋川春海が編纂した暦です 貞享暦 じょうきょうれき 将棋の世界でも有名だった江戸時代の数学者です 久留島喜内 くるしまきない 将軍・徳川家斉の息子である第11代尾張藩主です 徳川斉温 とくがわなりはる 将軍・徳川家斉の息子である第12代尾張藩主です 徳川斉荘 とくがわなりたか 随筆集『甲子夜話』で有名な江戸時代の平戸藩主です 松浦静山 まつらせいざん 戦国時代から江戸時代にかけて大名の直轄地のことを指した言葉 蔵入地 くらいりち 全国を遊行して仏像を作った江戸時代後期の彫刻家です 木喰 もくじき その私塾の名前にもなった国学者・平田篤胤の号 気吹舎 いぶきのや 第5代将軍・徳川綱吉の侍医も務めた江戸時代の医者です 安倍瑞屯 あべずいじゅん 代表作に『三十六歌仙図屏風』がある江戸時代の画家です 土佐光起 とさみつおき 代表作に『十便十宜図』がある江戸時代の画家です 池大雅 いけのたいが 代表作に『動植綵絵』がある江戸時代の画家は伊藤○○? 若冲 じゃくちゅう 代表作に『亦復一楽帖』がある江戸時代後期の画家です 田能村竹田 たのむらちくでん 代表作に国語辞典『和訓栞』がある江戸時代の国学者 谷川士清 たにかわことすが 高橋泥舟・山岡鉄舟とともに「幕末三舟」と呼ばれました 勝海舟 かつかいしゅう 長州征伐の責任を取って自害した幕末の長州藩家老 周布政之助 すふまさのすけ 著書『靖献遺言』で知られる山崎闇斎門下の江戸時代の儒学者 浅見絅斎 あさみけいさい 著書に『聖教要録』がある江戸時代の儒学者です 山鹿素行 やまがそこう 著書に『民間備荒録』がある江戸時代中期の医者です 建部清庵 たけべせいあん 月のクレーターに名を残す江戸時代の和算学者 安島直円 あじまなおのぶ 天保の改革をした水野忠邦の長男で老中を務めたのは水野○○? 忠清 ただきよ 天文観測機器を多く改良した江戸時代の暦学者 間重富 はざましげとみ 動植物を描いた、江戸時代の画家・伊藤若冲の代表作です 動植綵絵 どうしょくさいえ 徳川秀忠、家光に「新陰流」を伝授した剣術家 柳生宗矩 やぎゅうむねのり 徳川吉宗の側近として活躍した江戸時代の数学者です 山路主住 やまじぬしずみ 徳川吉宗の玄孫にあたる幕末に老中首座を務めた人物です 板倉勝静 いたくらかつきよ 徳川吉宗の時に定められた江戸幕府の職俸制度 足高 たしだか 特定の商人が生糸を一括購入する江戸時代の制度 糸割符 いとわっぷ ドラマ『水戸黄門』でもおなじみの江戸時代に薬を入れた道具 印籠 いんろう 中山道の追分と北陸道の高田を結んだ江戸時代の街道です 北国街道 ほっこくかいどう 日本初の天体望遠鏡を独学で製作した江戸時代の職人です 岩橋善兵衛 いわはしぜんべえ 後に三世雪中庵となった江戸中期・後期の俳人です 大島蓼太 おおしまりょうた 幕府天文方の翻訳掛を務めた江戸時代の蘭学者 箕作阮甫 みつくりげんぽ 幕末に軍艦奉行、外国奉行を務め日本の近代化に貢献した人物です 小栗忠順 おぐりただまさ 芭蕉が「東三十三国の俳諧奉行」と呼んだ、「蕉門十哲」の一人 杉山杉風 すぎやまさんぷう 林羅山によって江戸幕府の官学になりました 朱子学 しゅしがく 藩校・明徳館を設立した18世紀後半の秋田藩の名君 佐竹義和 さたけよしまさ 病弱のため30歳の若さで死去した伊勢長島藩の初代藩主 菅沼定仍 すがぬまさだより 広瀬淡窓や稲村三伯の師匠である江戸時代の儒学者 亀井南冥 かめいなんめい フランス式訓練を受けた江戸幕府直属の近代歩兵部隊 撤兵隊 さっぺいたい 閉門よりも重く、改易より軽い江戸時代の刑罰 蟄居 ちっきょ 別名「四方赤良」という江戸時代の狂言師 大田南畝 おおたなんぽ 戊辰戦争の際の会津藩の家老 西郷頼母 さいごうたのも 松尾芭蕉の死後に門人の河合乙州がまとめた、芭蕉の俳諧紀行です 笈の小文 おいのこぶみ 松平定信に重用された江戸時代の国学者です 村田春海 むらたはるみ 丸橋忠弥とともに慶安の変を起こしました 由井正雪 ゆいしょうせつ 三重県の名産品、萬古焼を創始した江戸時代の陶芸家 沼波弄山 ぬなみろうざん 山本常朝が口述した武士の心得『葉隠』を筆記した鍋島藩士 田代陣基 たしろつらもと 雪の観察結果を『雪華図説』としてまとめた古河藩の藩主 土井利位 どいとしつら ライト兄弟より120年も前に初めて空を飛んだ日本人 浮田幸吉 うきたこうきち 和算家・建部賢弘が著した算木を用いた代数学に関する書 円理綴術 えんりてつじゅつ 渡辺崋山による肖像画でも有名な古河藩の蘭学者 鷹見泉石 たかみせんせき
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Q 江戸時代の儒学者・伊藤仁斎が京都の堀川に開いていた別名を「堀川学校」といった私塾の名前は? A 古義堂 Q 蛮社の獄で捕まった高野長英が脱獄後、江戸で町医者を開業した時に名乗った偽名は○○○? A 沢三伯 Q 別名を「近江聖人」という江戸時代初期の儒学者で「日本陽明学の祖」とされているのは誰? A 中江藤樹 Q 江戸時代中期に幕府の命により木曽三川の治水事業をおこなった薩摩藩士が、自殺や病死を余儀なくされた事件は○○○○事件? A 宝暦治水 Q 江戸時代に主人に抱えられずに独立して自前で営業していた芸娼妓のことを何という? A 出居衆 Q 幕末の1861年に薩摩藩士の伊牟田尚平らに殺害された駐日アメリカ総領事館の通訳はヘンリー・○○○○○○? A ヒュースケン Q 1864年に会津藩士・柴司が長州藩浪士と誤って土佐藩士を斬りつけ、切腹する結果となった事件は「○○○亭事件」? A 明保野 Q 日本三大仇討ちにも数えられる1634年の「伊賀越の仇討ち」で渡辺数馬が荒木又右衛門の力を借りて討ち取った、弟の仇は? A 河合又五郎 Q 遊郭唐琴屋の息子・丹次郎を主人公とした、江戸時代の劇作者・為永春水の人情本は? A 春色梅児誉美 Q 1828年のシーボルト事件でシーボルトが日本地図などを積んで出航しようとした船はコルネリウス・○○○○○号? A ハウトマン Q 1837年に大坂で乱を起こした元与力の大塩平八郎が自宅で開いていた私塾の名前は? A 洗心洞 Q 1723年に老中となり、徳川吉宗の享保の改革を推進し、財政再建に努めた下総佐倉藩初代藩主は? A 松平乗邑 Q ダミー A ダミー
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江戸時代の蘭学者・高野長英の著書は『○○○物語』? <戊戌夢> →ぼじゅつゆめ 江戸時代に江戸で朝食時に使用した、料理を載せる台 <蝶足膳> →ちょうあしぜん 江戸時代に岡山藩にあった庶民のための学校です <閑谷学校> →しずたにがっこう 江戸時代で将軍と老中の間をとり継いだ役職 <側用人> →そばようにん 後に三世雪中庵となった江戸中期・後期の俳人です <大島蓼太> →おおしまりょうた 広瀬淡窓や稲村三伯の師匠である江戸時代の儒学者 <亀井南冥> →かめいなんめい 寛政の三博士の一人です <古賀精里> →こがせいり 随筆集『甲子夜話』で有名な江戸時代の平戸藩主です <松浦静山> →まつらせいざん 平将門の首を祭っている東京の神社です <築土神社> →つくどじんじゃ 土方歳三の死後、新撰組の最後の隊長を務めました <相馬主計> →そうまかずえ 江戸時代に多数の参拝者でにぎわった向島の神社です <三囲稲荷> →みめぐりいなり フランス式訓練を受けた江戸幕府直属の近代歩兵部隊 <撤兵隊> →さんぺいたい,さっぺいたい (どちらが正しいか不明) 江戸時代に発明された消防ポンプの一種です <龍吐水> →りゅうどすい 江戸時代初期に対馬と朝鮮が結んだ通商条約 <己酉約条> →きゆうやくじょう 幕末に軍艦奉行、外国奉行を務め日本の近代化に貢献した人物です <小栗忠順> →おぐりただまさ 現在の均一ショップに当たる江戸時代の価格が一律のお店 <四文屋> →しもんや 江戸時代に使われ始めた屋根の瓦の種類です <桟瓦> →さんがわら 江戸時代、旗本・御家人の代理で蔵米の取引をしました <札差> →ふださし 江戸幕府最後の老中首座 <板倉勝静> →いたくらかつきよ 1865年に江戸幕府の最後の大老となった姫路藩主 <酒井忠績> →さかいただしげ 江戸時代前期の儒学者・伊藤仁斎の著書です <童子問> →どうじもん 「幕末の剣聖」と呼ばれた江戸時代の剣客です <男谷信友> →おたにのぶとも 将軍・徳川家斉の息子である第11代尾張藩主です <徳川斉温> →とくがわなりはる 江戸時代に造られた細長く屋根のない舟 <猪牙舟> →ちょきぶね 佐久間象山を暗殺したことで有名な幕末の武士です <河上彦斎> →かわかみげんさい 安政の大獄における逮捕者第1号となった儒学者 <梅田雲浜> →うめだうんぴん 代表作に『三十六歌仙図屏風』がある江戸時代の画家です <土佐光起> →とさみつおき その私塾の名前にもなった国学者・平田篤胤の号 <気吹舎> →いぶきのや 市河米庵、貫名菘翁と共に「幕末の三筆」と呼ばれました <巻菱湖> →まきりょうこ 市河米庵、巻菱湖と共に「幕末の三筆」と呼ばれました <貫名菘翁> →ぬきなすうおう 著書に『民間備荒録』がある江戸時代中期の医者です <建部清庵> →たてべせいあん 江戸時代に銭湯で働く女性のことをこう言いました <湯女> →ゆな 江戸、天明の狂歌三大家とは唐衣橘洲、太田南畝と誰? <朱楽菅江> →あけらかんこう 第5代将軍・徳川綱吉の侍医を務めた江戸時代の医者です <安倍瑞屯> →あべずいじゅん 江戸時代の画家・尾形光琳の代表作は『○○○図屏風』? <燕子花> →かきつばた 寛政の三博士の一人です <尾藤二洲> →びとうじしゅう,びとうにしゅう 1715年に周防国で起きた徳山藩が改易された事件は○○○事件? <万役山> →まんにゃくやま 幕末に京都で岡田以蔵に殺害された岡っ引きです <猿の文吉> →ましらのぶんきち 家綱から吉宗まで5代の将軍に仕えた江戸時代の儒学者 <林鳳岡> →はやしほうこう 歌集『独楽吟』で知られる幕末の歌人です <橘曙覧> →たちばなのあけみ 江戸時代末期に公武合体政策を推進した幕府の老中です <久世広周> →くぜひろちか 歌舞伎役者の初代・市川団十郎が狂言本を書く時に使った筆名 <三升屋兵庫> →みますやひょうご 相模小田原藩の初代藩主を務めた江戸初期の老中です <大久保忠隣> →おおくぼただちか 江戸時代の思想家、石田梅岩の著書 <都鄙問答> →とひもんどう